ブランドの空間と経営の品質
本ブログで言うブランドないしブランドイメージとは、よく言う経済市場におけるイメージを指した概念だけではなく、人材市場や株式市場におけるイメージも含めた、広義の意味である。
経営とは、あるブランドから異なるブランドへ遷移・移動する矢印を指す。つまりブランド空間が定義でき、経営はブランド空間内の速度である。
ブランド空間には、ポテンシャル(地形)がある。
例えば。ブランド空間のA地点からB地点へ直接行こうとすると、その間には山があるので難しい。C地点を経由するルートを取ると、高低差は少なくなるが道のりが長くなる。
このとき、コストやリスクを取って前者のルートを取るのか・若干スピード感に欠けるが安全な後者のルートを取るのか、などといった意思決定が、経営判断である。
ポテンシャルは、自社都合だけでなく、競合の存在・社会情勢・技術の発展状況・等々によっても変わる。
経営には、良し悪し、すなわち品質がある。
経済市場におけるブランド空間内での経営品質は売上などが、人材市場に関しては社員サーベイの結果や平均勤続年数などが、株式市場に関しては株価が、それぞれ判断材料を提供してくれる。
この時、これらの数字がイコール経営品質だと勘違いしないように注意する必要がある。これは、バグ数などがイコール プロダクト品質というわけではない構図と似ている。
企業内で行われる活動、あるいは企業内で定義されているロールは、ほとんどが経営、すなわちブランド空間の移動と直接的・間接的に関与している。例えば、
- プロダクト開発・営業・CS・マーケティングは、ブランド空間を進んでいく行為
- プロダクト開発: 今後こういう開発をやっていくぞ、という意思決定は株式市場のブランド空間を進む。開発体制・開発環境の改善は人材市場のブランド空間を進む。
- 営業・CS・マーケティング: 売上を伸ばす・チャーンレートを下げるなどにより、経済市場や株式市場のブランド空間を進む。
- SRE・セキュリティエンジニア・テストエンジニアの業務は、自組織がブランド空間を引き続き進んでいけるかの検査のイメージ。進行方向に障害があれば取り除く・地形を均す、といった業務も含む
- 経営陣は、経営をする、すなわちブランド空間内でのベクトルを調整する
品質管理・品質保証、QAと呼ばれるようなロールは、この経営の品質をも管理・保証し、改善を主導するのがあるべき姿だろう。
ベンチャーにおけるQAエンジニア、逆にテストやってる場合じゃない説
ベンチャー企業に業務委託のQAエンジニアとして参画しお悩み相談を受けていると、次のような声をよく聞く。
「今はまだテストで手いっぱいなんですよね」
「プロダクト品質がもう少し安定したら、プロセス改善とかにも手を出していきたくて」
そんなふうに考えていた時期が俺にもありました
つまり、まずテストを大きいテストから順に整備していきインシデント量を減らし手戻りを減らし、
そこから使い勝手などインシデントには繋がらないプロダクト品質も向上させ、
プロセス品質・意思決定の品質・チームの品質を向上させ、
採用活動の品質・営業活動の品質・CSの品質・マーケティングの品質、最終的には経営の品質をも保証していく。
そういうロードマップを描きがちだった。
しかし、最近この考え方が変わってきている。
セキュリティなど、ベンチャーでもきっちりしておかないといけない品質特性はあるが、
PSF(Problem-Solution Fit)を目指すフェーズでは、仮説の品質や意思決定の品質の方がプロダクト品質よりも重要で、
PMF(Product-Market Fit)を目指すフェーズでは、フィードバックループの確立や開発ベロシティ向上のためのプロセス品質の方が重要だ。つまりはロール横断的な取り組みが効いてくる。
そのようなフェーズで、「まだテストで手いっぱい」というのは、よくよく考えれば奇妙な話である。
「まだ」ってなんだ。その状態を抜ける日はいつ来るんだ。
ベンチャーこそ、プロセス品質・意思決定の品質・チームの品質を上げ、いわゆる「ゼリー状の組織」にしていくような品質保証エンジニアの動き方が重要に思う。採用活動の品質も優先順位が高い。
その後、スケールさせるためにプロダクト品質・営業活動の品質・CSの品質を向上させ、次いでマーケティングの品質も向上させる。そういう流れの方が健全なのではないか?
そういう考えに、最近変わってきた。
むしろ、メガベンチャーやJTCこそ、「テストで手いっぱい」になっているべきだと思う。
ひとつのバグが顧客や社会に与える影響が大きくなっているだろうし、そりゃあ「ゼリー状」にできたらいいけど、実際問題としてはある程度縦割りな方が組織としては機能しやすいだろうし。
物書きは下賤な職業である / 物書きは高度な知的労働者である
物書きは下賤な職業である。
有事の際に、恐らく真っ先に廃業する職業のひとつだろう。
お客様に価値を提供している職業というより、お客様の可処分所得と可処分時間とに寄生した虫のような職業である。
「先生」とかって呼ばれがちだが、いい気になってはいけない。
政治家や医者は有事の際にも重要な職業だが、物書きはそうではない。
お客様の方が社会の役に立っているということを忘れてはいけない。我々にできるのは、お客様の活力源となるような面白いお話を提供し、お客様の明日のお仕事をよりがんばれるようにする、その一助となるぐらいである。
物書きは高度な知的労働者である。
物書きが職業として確立しているということは、文明・文化がある程度より発展し、情勢が安定し平和である、ということの証左である。
そのような、高度に成熟した社会でのみ存在が許される、高度な知的労働者なのである。
その証拠に、政治家・医者などと同様に「先生」との敬称を付けられる。
ゆえに、プライドを持って、高度な知能を有し続けるべく、自己研鑽を継続せねばならない。
例えば、他の作品を見て表現方法を学ぶ
例えば、様々な学問を学び、知見を広げる
例えば、様々な職業・組織・国などについて調べ、引き出しを増やしておく
例えば、推論のトレーニングを行い、創作の自由度を上げておく
プライドを持ち、ただし謙虚に。
自戒を込めて。
テンポとネタバレ性について
物語にも音楽にも、テンポという概念がある。音楽のテンポに良し悪しは無いが、物語のテンポには良し悪しがある。すなわち「この物語はテンポが良い」とか「悪い」とかと言われる。
言い換えると、物語のテンポは"品質"を評価されるが、音楽のテンポは評価されない(ことが多い)。
これが、物語と音楽の構造の違いによるものなのか、同じ「テンポ」という語を使っているだけで指し示している概念が異なっているためなのかは、まだわからない。
直感的には後者である。音楽のテンポは要するにBPMのことであるが、物語のテンポが何のことなのか我々は実際のところよくわかっていないのではないだろうか。漫画や小説といった静的な物語にも人間は「テンポ」を感じるのも不思議だ。
物語と音楽とで異なる点。他にはネタバレ性がある。
一般に物語の場合、ネタバレが忌避される傾向にある。手垢の付いた展開は読者・視聴者に非難される。ただし音楽の場合、いわゆる定番曲のような存在があり、繰り返し演奏されることである種の熟成がなされたりするし、定番曲のイントロを聞いたオーディエンスが沸いたりもする。
ところが、同じ物語でも、例えば落語や能などは音楽と同じような「定番」が存在する。このネタバレ性については、物語か音楽かではなく、創作か芸能かという切り分け方が適している可能性もある。
物語とソフトウェア工学との類似点について
物書きはマジで一度「ソフトウェア工学」をやったほうが
— うきぐも ひろ (@HiroUkigmo) 2025年10月19日
某バズツイートをパクって、半分本気・半分冗談で上記の通りツイートしたが、もう少し具体的な話をしてみる。
- 物語も、距離・時間・空間を超越でき、資源がかからず劣化せず、複製が容易
- 物語も、キャラクターというオブジェクトについて、それぞれどういった属性やふるまいなのか、他のオブジェクトにどこまでの情報を公開しどこから隠蔽しているのか(= 隠し事があるのか)、を整理する必要がある
- 物語も、何がトリガーとなって、どの状態からどの状態へ遷移するのか(= どんな変化が起きるのか)、を整理する必要がある
- 漫画やアニメ・ドラマなどビジュアル情報を持つ物語も、全てを言葉で説明するのではなく見た目で直感的に情報を伝える必要があり、すなわちUIだとかアフォーダンスだとかを考える必要がある
プロダクトと違って、エラーが出て動かなくなるみたいなことはないので、脳みその使い方としてはテスト開発や改善施策開発に近いのかもしれない。
しかし、かつて作ったものの変更・修正が(基本的に)不可能なので、やはりテストとも改善施策とも違う。つまり、サービス工学でいうところの同時性に近い性質を有している。
そういう意味ではサービスに近い。が、物語には消滅性がない。物語は物語か。物語工学。
私にとっての創作とは創作ではなく表現なのかもしれないなァ
創作とは2つの「つくる」を重ねた熟語である。つまり創作活動とは「つくる」活動だということだ。
しかし、我々は本当に、創作活動の際に「つくっている」のか。
私の感覚では、「つくっている」というより「見ている」という言葉の方がしっくりくる。
脳内にある映像をじっと見つめ、見つめ、見つめ、少しずつ解像度が上がり、それを紙やらiPadやらに描いている。「つくっている」なんておこがましいとすら思えてしまう。拙作の登場人物の方が私なんかよりも何倍も魅力的なので、彼らの発言や意思決定を私が「つくる」よりも、私はただ傍観に徹して彼らの自主性に全てを委ねた方が面白い作品になると確信しているのだ。
理屈でもって整理すると、恐らく、私自身の自我や主義主張を滅して、その登場人物や物語世界にとって最も自然な形を模索している、といったところなのだろう。
私が「彼はこの戦いを生き残ってくれないと困る」とか「ここでこいつを惨たらしく殺したい」とかと思っても、それがその物語世界にとって不自然・無理矢理ならば却下。第三者的に、物語世界に対して公平なジャッジをくだす。そういう営みだ。
これは、「つくる」という言葉の持つイメージからかけ離れていると感じる。
「つくる」とは、先人たちが歴史の中で築き上げた理論やセオリーに則って、その人の哲学や思想などで補助しながら、設計・実装する行為を指す。ここまで整理してきた創作という活動では、その人の哲学や思想などはむしろ徹底的に排除するし、創作における理論やセオリーは困ったときの補助ツールだと理解している。「つくる」からは相当にかけ離れている。
私が行っている創作活動とは、「つくる」というよりも、その物語世界において最も自然な、ある種の正解を探し出し、我々の世界にその断片を射影する行為、というイメージが強い。
例えば、「あらわす」を2つ重ねた「表現」の方が近いのかもしれない。
もちろん、創作活動ないし表現活動に正解があるのかは未だ不明だ。「つくる」タイプの創作活動の方が良いケースもあるだろう。ただ、あくまで私にとっては、「あらわす」タイプの創作活動ないし表現活動の方が自然であり、ある種の正解であると感じている、ということだ。
私には、大理石の中の天使が見えている。
そしてそれが解き放たれるまで、ただ掘り続けるだけなのだ。
── ミケランジェロ
この世界の「11次元性」について考える
超弦理論という物理学の仮説がある。この世界は、空間10次元・時間1次元の11次元でできているという仮説である。なぜ11なのかというと、色々計算すると11次元無いと困ったことになるから、という話らしい。昔は超ひも理論という呼称の方がメジャーだった気がするんだが、いつの間にか超弦理論の方が市民権を得ていた。
この「11次元」を現実世界に置き換えてみる。何を言っているのかというと、0次元的な思考は今の目の前の仕事のことしか考えられていなくて、1次元的な思考は比較・検討ができるようになっているんだけど比較項目が1つだけで……といった具合である。
0次元は点だ。今目の前にある仕事・事象・事柄にしか意識がいっていない。将来のことや他のことなどはアウト・オブ・眼中。面倒くさいなぁと思いながらも改善とかはせずにもくもくと与えられたマニュアルに従って手を動かしていたり、お金もらえるしいいやと面倒とすら思っていなかったりするような状態だ。
これが1次元になると、比較・検討が始まる。ある一本の評価軸により、こっちの方がイイ・悪いと比較をする。
しかし一般に、評価軸が1本だけでは比較・検討としては不足している。四象限にプロットしたり星取表を描いたりすると、比較・検討としては及第点がもらえるだろう。これが2次元だ。
そこからさらに進んで3次元的な思考になってくると、四象限のプロットや星取表は全て思考の断面になってくる。どの面・どの部分を2次元に射影させると今この場面において最も効果的かを考えられるようになっている状態が、3次元を使いこなし3次元で生きている状態だろう。
そして時々、4次元的な思考の人がいる。3次元を生きる人間には観測できない世界が観えていて、空気感とか口調とかそういう細かいところなどから危機を察知したり相手をアナライズしたりする。
これにプラスして時間の次元がある。過去から現在までの線を結んで、その延長線上にある未来を結構な精度で予測できる人が観測できている次元だ。
感覚的には、自由自在に扱える次元数が、空間と時間とを合わせて0次元で義務教育クラス・1次元で高等教育クラス・2次元でジュニアクラス・3次元でミドルクラス・4~5次元でシニアクラスといったところか。
つまり世の中の主な人材は3次元の世界で生きている。そして稀に4次元や5次元を自由自在に扱える人が存在している。
そう、4次元や5次元で「稀」のレベルなのである。11次元を扱える人なんでまず居ない。
私は「11次元性」に飢えているのだと先日気が付いた。
一般的な思考・感性では全くもって理解できない、意味不明な発想を持つ11次元の住人に惹かれる。誰にも予測できなかった、コントロール不可能な11次元の事象に惹かれる。彼ら・それらは、次元の隙間から時折顔を出し、3次元の世界に染み出してきてくれる。
私は恐らく、主に創作活動と音楽に、この11次元性を見出している。
作者であるはずの自分自身の予測をはるかに超越して、登場人物や出来事が、成長し発展し繋がり「円」になる。この偶奇に11次元性を感じている。
本番特有のアクシデントやオーディエンスとのある種の共鳴によって再現不可能な空間を生み出す。音楽の「ライブ性」とは、我々の3次元の世界へ11次元を射影させた結果の一つなのだろう。
自分たちの手元で11次元を生み出すためには、行き当たりばったりではきっとダメだ。
行き当たりばったりとはいわば、3次元以下の世界での見積もりで満足している状態だ。それでは、いかなる偶奇やアクシデントを乗り越えようと、精々が7か8次元程度までの扉しか開かれないだろう。
脳みそから血が出るんじゃあないかと思うほど根気よく愚直に考えて考えて考え抜いて、自力で7とか8とかの次元に到達し、その上でなおも発生する偶奇やアクシデントを乗り越えた先に、ようやく11次元の世界が待っているのだ。
この世界は11次元であってほしいし、もっと私の手元で11次元性を観測したい。
嗚呼11次元、どこにあるのだ11次元。